それはあなたのの書くべきことか?やるべき仕事か?叩かれることは称賛に等しい価値だと思う

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先日、イケハヤさんのブログ塾で共有されていた記事を読んで感化されたことを綴ってみる。

自分の書くべきことは決まっている。あなたは他の人が書くべきことを書いているのかも

これを読んで、イケハヤさんの感想を読んで、ホントその通りだよなーと思って。

仕事も記事もそうだけど、代替可能なものに時間を費やすのって人生を無駄にしていると思う。それって自分じゃなくてもいいんだから、俺がやってもあなたがやっても、ロボットがやっても同じことをできるんだったら、やるべきことじゃないと思うんだよね。

で、ノウハウ記事や知識の記事だったら、もう代替ググれば出てくるわけで、ググって学んだことを共有しようとしても、もうその記事はあるわけでなんら面白みがないし、必要性もないと思うんだよね。せめて、そこに自分の感じたことを書いたり…

というか!

感じた事、個人的な見解、勝手な意見。こうした要素にこそ、その人が書くべきこと、やるべき仕事というのが眠っていると思う。うん、今気づいた。

共通解、常識、ルール、そんな類のいわゆる普通のものってみんなが出せるものなわけで、個性やらその人のオリジナリティというのは、常識からずれた、逸脱した、超個人的な発想や勝手な意見にこそあるよね。

もちろん、古い人間や固定観念の中にいる存在からすると、それは絶好の餌なわけで、日ごろのうっぷんをそこにのせて、叩く対象になるわけだけれども、たたかれるからこそ、エッジが効いているという証にもなるし。

このへんが、俺らの教育上、出る杭にならないように、従順に先生の言うことを聞くように教育されてきた弊害で勘違いしてしまうんだけれども、むしろ叩かれるのはいいことで、嫌われるのはいいことで、むしろ嫌うこともいいことなんだと、学校では教えてくれなかったけれども、そういうことこそ大人たちが教えてあげたら、もっと世の中楽しくなると思うんだよね。

叩かれていい、嫌われていい、嫌っていい。そんな自由を認め合えたらば、もっと世の中遊び心にあふれて、多様性にあふれていくと思う。

人をけなしちゃダメ、嫌っちゃダメというように制限しているから、日ごろの抑制された嫌う、叩くということを過大評価して、特別視してしまうわけで、好きや称賛といった概念と同じくらい、嫌いや批判というものが認められた概念だとしたら、それらに対する特別視もなくなるわけで、すると叩かれたり、嫌われたりを恐れて、新しいことや個性を主張するということが当たり前の、これまた普遍的なことになっていく。

そうすると、今のように新しいことをするのがある種かっこよくて、従来の価値観にしたがって誰かのサポートをすることはサブキャラといった役割の上下といった概念も崩れて、自分の好きなものを純粋に選択するという真に自由な価値観の中で人生を謳歌できるようになるんじゃないかな。

まー、これはもうちょっと先の未来の価値観の話しな気がするから、今は嫌われること、たたかれることは、悪いことではなくて、人に称賛されるくらい素晴らしいことだということを腑に落とすために、エッジの効いた個を発言するということに重きを置いて発信していくことにエネルギーを注いでいきたいね。

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ABOUTこの記事をかいた人

Shinta Hosokawa

岩手県出身の86世代。2015年10月、東京から小林市へ地域おこし協力隊として移住。情報発信からの現地滞在、新たな人の流れを作るべく。メディアを育てつつ、ブックカフェ兼ゲストハウスというリアルな箱を準備中。